昭和34年(1959)創業者と三代目

昭和34年(1959)の創業者と孫

「とにかくおっかない頑固爺い」
それが私にとっての祖父・猛の印象です。
私が近所の子供たちと家で遊んでいるときなど、子供同士のほんの些細な言い争いが始まろうものなら、祖父は瞬時に、
「解散だ、解散!」
と大声で怒鳴り散らし、子供たちを追い返したものです。おかげで私は早くも3歳にして「解散」という単語を覚えました(苦笑)。

あれは当時まだ珍しかったハンバーグが夕食に出されたときのこと。
「なんだコレは! こんなもの食わせて、オレを殺す気か!」
祖父は皿に盛られた茶色い肉の塊を見るや、食べる前から卓袱台をひっくり返さんばかりに怒り狂いました。

その後少しは落ち着きを取り戻した祖父は、母に懇願されて「こんなもの」をいやいや口に運ぶや、意外な美味さに驚いたのか、夢中で一気に完食してしまいました。

しかし、あれだけ大声を張り上げた手前、今さら「美味かった」とも言えず、食後無言でフラリと外に出かけたかと思うと、しばらくして母の大好物のアイスクリームを山ほど買って帰ってきました。そしてその後、ハンバーグは祖父が黙っていても、少なくとも週1回は食卓に上るのでした。

このような逸話を今になって思い返すとなんとも微笑ましくすら感じますが、当時の幼い私にとって、祖父はとにかくすぐ怒る、それも大声で怒鳴る、ただただ怖いだけの人でした。

そんな祖父への、畏怖というより恐怖が、ひいては「常に他人の顔色を窺う」という、子供にあるまじきある種の卑屈さ・臆病さ・狡猾さを、幼い私に強烈に植え付けたのは確かなようです。

事実、祖父が亡くなったときなど、悲しむどころか、
「これでもうあの怒鳴り声を聞かずに済む!」
と、心ひそかに快哉を叫んだものです、ごめんね爺っちゃん。

そんな祖父・松崎 猛は昭和44年(1969)に78歳で亡くなったので、そこから逆算すると明治24年(1891)生まれということになります。

出身は高知だとは聞かされていましたが、今となっては祖父の足跡を唯一知る末娘(私の母)も86歳、祖父については何を聞いても「憶えていない」の一点張り。 いつごろ・どんな事情で上京したのかはもちろんのこと、どこの店で修業を積んだのかも今となっては知る由もありませんが、大正10年(1921)、神田神保町に印鑑店を開いたことは、母が生前祖父から聞いていたので確かなようです。

その後関東大震災や東京大空襲の惨禍をくぐり抜け、品川区大井町に店を移したのが昭和27年(1952)年。その5年後に金沢から上京して新宿のハンコ屋で修業していた八朔秀夫を末娘・七枝の婿に迎えます。

二人の間にできた最初の子供は生後わずか30分で死亡、その2年後、昭和34年(1959)に生まれたのが私です。

待望の内孫の誕生に大喜びの祖父は、
「文福堂印房の創業以来、一番最初に生まれた子供だ」
という意味を込めて、私に「文一」と名付けました。もちろん、両親である私の父母の意向などはまったく無視して(苦笑)。

上の写真は比較的最近発見されたものです。私が生まれて半年後あたりに撮られたものと推測できます。私の愛くるしさはちょっと横に置いといて(笑)、特筆すべきは祖父のなんとも柔和で温厚そうな表情です。少なくとも私自身、このように優しげな祖父を見た記憶がありません。

この写真を見つけて以来、なにかと祖父を思い出す機会が増えました。
「あなたのお爺さんは実に面倒見がよく、人望もあった」
「お爺さんと私の祖父は大の仲良しで、よく一緒に旅行に出かけた」
「酔うとちょっとエッチな歌を唄ったりする愉快な人だった」
そんな、私の知らない祖父の人柄についての証言を耳にするにつけ、叶わぬ願いと知りつつも、その素顔に接したいという思いが募ります。

あなたが始めた店を、どうにか続けることができています。できれば一度じっくり酒を酌み交わしたかったね、爺っちゃん。