【昭和印鑑工房】について

昭和印鑑工房

私は20歳で、港区虎ノ門の印鑑店「長澤印店」に就職しました。就職といっても、昔の言葉で言う丁稚奉公です。 もっとも、当時父が「長澤印店」から彫刻の仕事を戴いていたので、その意味では縁故就職と言えるかも知れません。

「長澤印店」は、天保年間創業の老舗印鑑店「江島印房」の傍流として長沢 清吉が大正年間に創業しました。その後「江島印房」が廃業、貸しビル業に転じたこともあり「長澤印店」は次第に名門印鑑店としての地位を固めていきます。

そして清吉の息子・長沢 頼宏が二代目社長に就任するや、日本橋三越やホテルオークラに相次いで出店するなど、「虎ノ門・長澤印店」の名を確固たるものに押し上げます。

私が入社した昭和54年(1979)の時点では残念ながら長沢 頼宏社長はすでに他界していましたが、社長が築いた「徹底した高級志向の長澤イズムとその自負」は、残された従業員たちの間に脈々と受け継がれていました。

右も左もわからない新入り丁稚小僧の私にいろいろと指導してくれたのが、先輩の山川 太嗣。彼もまた京都の印鑑店の跡取り息子で「長澤印店」で修業中の身でした。

山川先輩が入社したとき、長沢 頼宏社長はまだ存命中で、彼はほんの3カ月ほどでしたが社長の薫陶を受けました。 山川先輩から頼宏社長のエピソードの数々を聞かされるにつけ、ぜひともそのご指導を仰ぎたかったと悔やんだものでした。

その「長澤印店」から100メートルと離れていない同じ通り沿いにもう1軒、老舗の印鑑店がありました。それが「三田印房」です。当時すでに御大として印鑑業界で一目もニ目も置かれてた三田 秀泉率いる、こちらも名門と謳われた高級印鑑店です。

「長沢印店」は社長自身が印鑑彫刻技術を持たないこともあって、山川先輩や私のような印鑑店の子弟に対して、技術を伝えるのではなく、得意先回りや接客といった 営業・経営面を実践的に指導する役割を担っていました。(山川先輩は後述の印章技術講習会に通い、確かな印鑑彫刻技術を身につけました)

一方、名だたる印鑑彫刻家である三田 秀泉の「三田印房」の元には、全国から印鑑店の息子たちが集いました。彼らは代々住み込みで技術習得に励み、3~5年後には印鑑職人となって巣立っていきました。

私が「三田印房」の前を通りかかり、店内の様子を窺うたびに、私と同年代でしょうか、生意気にも口ひげを生やした若者が黙々と印鑑彫刻に励んでいる姿を目にしました。

当時、東京印章協同組合が主催する技術講習会の講師であった私の父が「今、三田印房さんで修業している若者は講習会にも来ているが、実に熱心でセンスもよい。彼はきっと良い職人になるよ」と、文字通り太鼓判を押したのを鮮明に憶えています。

彼の名は永田 皐月

永田 皐月とはその10年後に父の紹介で意気投合して以来、公私に渡って強固なパートナーシップを築いてきました。

その頃「長澤印店」は私の父の他に何人か彫刻職人を抱えていました。その中で実力的に(手前味噌で恐縮ですが)父と双璧をなしていたのが、小林 吉重という職人です。

小林 吉重師の作風はいかにも「長澤流」とも呼ぶべきもので、その風雅にして味わい深い作風は、私の父のそれとは完全に趣を異にしていました。

その小林 吉重師の次男が「長澤印店」に就職したのは私が入社から3年目を経たころでしょうか。しかし本人は営業・経営向きというより職人志向が強かったようで、しらくして「長澤印店」を退社、技術を身につけるために大阪の印鑑彫刻専門会社に入社し、やがてそこで厳父・吉重師譲りの才能を見事に開花させます。

ここまでお読みの方にはおわかりの通り、この次男こそが後の小林 董洋です。

山川 太嗣永田 皐月、そして小林 董洋

20代のいっとき、それぞれほんの一瞬でも、東京・虎ノ門を舞台に青春を交錯させた彼ら三人と、いつかは一緒に仕事をする機会を得たいと密かに思い続けること30年、その願いは平成26年(2014)【昭和印鑑工房】オンラインショップとなって実を結びました。

「長澤印店」は残念ながら私が退社した後しばらくして廃業しました。しかし高級感漂うだけでなく、緊張感に溢れる凛とした店の佇まいは、今も私の脳裏に鮮明に焼きついています。

そして、先輩である山川 太嗣には申しわけないのですが、私こそが「長沢 頼宏社長、最後の弟子」だと、勝手に自任しています。

どうかお許し下さい、山川先輩、そして長沢社長。

(文中敬称略)

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