叔父・松崎 弥太郎のこと

軍隊次代の叔父・松崎 弥太郎

このWebサイトで紹介しているモノクロ写真は、私が写る1枚と「印の畑」からの転載を除き、すべて叔父・松崎 弥太郎によって撮影されています。

当店創業者である祖父・松崎 猛は、その妻・イノとの間に4人の子供をもうけました。上から順に
■長女:冨美子 大正11年(1922)生まれ
■長男:弥太郎 生年不詳
■次男:辰策 生年不詳
■次女:七枝 昭和7年(1932)1月生まれ
このうち次男・辰策はかなり若い頃に病死したようで、成人したのは残る3人です。

長男・弥太郎は時期不明ながら出征、東部八十八部隊佐野隊に配属されます。無事帰還を果たした彼は戦後、家業の印鑑店を継いで、昭和25年(1950)御徒町に出張所を開きます。

そして恐らくその前後に結婚しましたが、その後家庭内に起こったとある問題に心を痛め、やがて埼玉・長瀞で自ら死を選びます。それはいつごろのことか、今となっては定かではありませんが、昭和28年(1953)に熱海・錦ヶ浦で撮影された、妹・七枝との楽しげなツーショット写真が残されているので、それ以降のことと推測できます。

いずれにせよ、ある日突然、変わり果てた彼の姿と対面したときの両親(私にとっての祖父母)や姉妹(同様に私にとっての叔母と母)の悲しみはいかばかりだったろうかと思うと、胸が締めつけられるようです。

私が叔父・弥太郎について現時点で知り得るのは、残念ながら以上がすべてです。特に彼の死について触れることは、その後のわが家においては長い間タブーとなっていたようで、私自身その事実とそこに至る経緯を老母から聞かされたのは、比較的最近のことです。

詳述は控えますが、叔父がいかに悩み苦しんでいたのか、私なりに理解できます。しかし、たとえ信頼していた家族に重大な疑義が持ち上がったとしても、自らの命を絶つほどのことではないのではないか? 叔父に向かってそう呼びかけたくもなります。

しかし、もし叔父・弥太郎がそのとき直面していた事態を打開できたとしたら、彼はその後、祖父・猛の後を継いで当店の二代目店主となっていたことでしょう。

そうなれば末娘・七枝は、家業を継ぐことに束縛される必要もなくなり、自由な恋愛か、あるいは見合いを経てやがて他家に嫁いだに違いありません。印鑑職人を目指して金沢から上京していた八朔 秀夫青年とは、出会う機会すらなかったかも知れないのです。

もし本当にそのような歴史を辿っていたとしたら、当然ながら今これを書いている私は、この世界のどこにも存在していないことになります。そこに思い至ったとき、慄然とさせられました。

そしてそれ以降、なおさら叔父・弥太郎のことをもっと知りたくなりました。しかし彼を知る人は今やほとんどすでに鬼籍に入っています。彼の姉・冨美子(叔母)も一昨年(2016年)、94歳で大往生を遂げました。そして頼みの綱とも言うべき、彼が生前可愛がっていた妹・七枝(母)もすでに86歳、敬愛していた亡き兄の生前の記憶は、もはや忘却の彼方に消え去ってしまいまったようです。

しかし、そんな母もただひと言、
「弥太郎兄さんは、それはそれは優しい人だった」
遠い日のかすかな思い出をまさぐりつつ、絞り出すようにそう語ってくれました。

老母の言葉を待つまでもなく、遺された写真に見るその穏やかな笑顔から察するに、恐らくは温厚篤実、常に周囲に気を配る、思いやりに溢れた人だったのでありましょう。だからこそわが身に降りかかった悩み・苦しみを両親にも(心配をかけまいと)打ち明けることなく、すべてを一人で背負って旅立ったに違いありません。そしてそんな叔父のおかげで私は今こうして生きて・・・もとい「生かされて」いるのです。

私は元来が傲慢不遜で、ここまでの約60年間、やりたい放題、自分勝手に生きてきて、いつも周囲を振り回してきました。これを機に「生かされている」という現実と謙虚に向かい合い、そう多くはない残りの人生時間を怠けず弛まず、常に周囲の人々を気遣い、前を向いて歩いていくよう、強く肝に銘じます。

こんな甥っ子ですが、そっとお見守りいただけるとうれしいです。