昭和31年(1956)の文福堂印房

昭和31年「印の畑」記事

先日、さるお方から「押入れを整理していたらこんなものが見つかった」と1枚の紙をいただきました。 昭和31年(1956)11月20日発行「印の畑(第百ニ十六号)」第六面のコピーです。

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新築の文福堂

彌太郎さんの三年忌

初秋のそぞろ歩きに文福堂主松崎猛氏の新築のお店を拝見した。いかがです、御忙しうございますか、いや此年はすつかり、ひどい目にあいました。体中に湿疹が出来て百日かかりました。お久しぶりでしたとほゝを笑ませた-だが至極快濶でなによりと思つた。

店内は高畑翁と香雲先生の扁額が光つている。請ぜられるまゝに二階を拝見する。 折から故松崎彌太郎氏の三周年法要の行われた直後で故人が生前二十一才の時に揮毫したという篆書の七絶が掛けられ、また恩師香雲先生の延命十句観音経も冥福を助けるように燦然と表装されていた。

惜しいものですね、彌太郎さんがいらつしゃれば貴方も何の苦労もなかつたに返らぬことながら・・・と若い人をなくした悲しみを想ひやり、つい愚痴が口を突いて出た。

馬鹿な奴でした。と松崎氏は堪らなくなつて吐き出すように言う。お互の目がしらが熱くなつてきた。 これはいかんと話題を転じて建築の立派の事や凡てが文化的生活で旧式の家より住みよいことなどを語合った。

あと焼香をさせてい貰い茶話に一時の閑を貪ってお暇すると、ふとウヰンドの装飾が目にとび込んできた。花崗砂?床に寿山石の大石印材を散財させしゆろに菊花の根締めで場面を引きしめてある点仲々のお手際、どなたがと聞くとなに娘がという。令嬢七枝子さん事草月流師範の「紅楓」の作である。お父さんちょっと好い気持である。

写真は品川区大井森下町にこの春竣工した文福堂。支店は御徒町一ノ二でいよいよ発展している。

                                       -峡-
(以上原文ママ)
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一読し、心を激しく揺さぶられました。

この記事により、これまで不明だった叔父・弥太郎の没年が昭和29年(1954)であることを知り得ました。

それ以上に、その将来に大いなる期待を抱いていた愛する長男を若くして、それも自殺によって失った祖父・猛の悲痛な心の叫びを、初めて聞くことができました。

 「馬鹿な奴でした。」

この一言に、いったいどれほどのつらさ・無念さ・悔しさが凝縮されているか、それを考えるだけでも胸が痛みます。

別稿に記したように、私の知る限り、祖父は異常とも思えるほど短気で激しやすい人でした。そしてそれは典型的な明治人に共通する特質であろうと考えてきました。

しかし、わが最愛の息子による逆縁が及ぼした衝撃が、その後の祖父を長きにわたってじわじわと追い詰め、精神のある側面を徐々に蝕んでいったとしても決して不思議ではありません。

そんな祖父にとっての唯一の慰め・救いは末娘・七枝の存在だったのでしょう。長男の逝去から5年の月日を経て、その七枝と婿養子・秀夫との間に生まれた待望の孫息子に、文福堂にとっての最初の子供という意味で、あえて「文一」と名付けた祖父の切なる願いが、今となっては手に取るようにわかります。

創業者でもある祖父・猛が万感の思いを込めた「文一」の名に恥じない生き方をしているか?
そう自問自答するとき、さすがに忸怩たる思いを禁じ得ません。

しかし、今回この一文を起こしたことで、ほんの少しでも罪滅ぼしになればと願うばかりです。
そしてこれからも、不肖の三代目はまだまだ全力で突っ走りますよ、あなた方の分まで。


昭和31年、新築なった文福堂

三圭社・三井 雅博様、「印の畑」Web転載をご快諾いただき、まことにありがとうございます。