父・松崎 秀夫のこと

松崎 秀夫・七枝・文一

昭和37年(1962)6月、浜離宮恩賜公園にて妻・七枝、長男・文一とともに。

父・松崎 秀夫のことについては、これまでにも【秀碩の工房/職人の背中】や当サイトにても記してきましたが、もう少しだけ書かせてください。少しだけとはいうものの、かなり長くなると思われます、愚息のわがままで恐縮ですが、最後までお付き合いいいただければ幸いです。

昭和7年1月、父親の仕事の関係で台湾にて生まれた八朔(旧姓)秀夫は、その後両親と帰国、父親の故郷・金沢に戻って幼少期を過ごしました。そして小学校(国民学校)卒業後は早くも社会に出る決心を固めます。

これは父の最晩年に聞いた話ですが、当初は地元鉄道会社への就職を希望していたようです。それがどのような事情で潰えたかは知りませんが、なにせ当時は戦後も間もなく、就職に関しては厳しい状況だったのかもしれません。

ともあれ、昭和21年(1946)金沢市内にある印鑑店に就職します。就職といっても12歳ですから、文字通り丁稚奉公と言って差し支えないでしょう。その店で7年間の修業に励んだ後、昭和28年(1953)21歳のとき、印鑑職人としてさらに研鑽を積むために上京し、都内の大手印鑑店に勤める傍ら、篆刻家・関野香雲が主宰する「臥牛印社」に入門し、書と篆刻を学びます。

ちょうどその頃、文福堂印房の末娘・松崎 七枝も「臥牛印社」に通って書を学んでいましたが、それはどちらかというと「お婿さん探し」という側面が強かったのかもしれません。ともかくも二人は昭和31年(1956)に結婚します。

退路を断って上京したとはいえ、八朔の姓を捨てて松崎の家に入るにはそれなりの覚悟が必要だったことでしょう。父は婿養子として文福堂印房の売上げに貢献すべく、入店早々慣れない外回り、それも新規開拓にチャレンジしました。

ところが、意を決して飛び込んだ役所や事業所で、ことごどく門前払い同然の対応を受けたらしく、ガックリと肩を落として戻ってきて以来、彼はその後二度と外回り営業をすることなく、職人一筋で生きてきました。このあたりのことは本人が【秀碩の工房/足跡と独白】において語っている通りです。

ここで時計の針を一気に40年以上進めて【秀碩の工房】オンラインショップ誕生当時のことについて、いま少し詳しくお話しします。それは父と私が協力して完成させた「作品」とも言えるからです。

平成12年(2000)のある日、私は敬愛する同業の先輩から「店のホームページを作って欲しい」と頼まれました。というのも当時私は本業の印鑑店とは別に小さな会社を経営しており、そこで販売する商品のホームページを制作した経験があったからです。

しかしそれはホームページといっても専用ソフトを用いて作った極めて簡素なものでした。そんなド素人が、とても他人様のホームページなど作る自信がなく、また責任も持てなかったので丁重にお断りしました。

ところがそのとき突如として「印鑑職人としての父の歩みや作品をホームページで公開する」というアイデアが、具体的なイメージを伴って脳裏に浮かんだのです。

猪年生まれだけに思い込んだら猪突猛進! 10分ほど熱いシャワーを浴びながら頭の中でホームページの流れ・構成をまとめあげ、早速両親に打ち明けました。とはいえ、当時はインターネットやホームページ自体まだまだ広く社会に浸透していなかったので、彼らにはほとんど理解不能の話だったろうと思います。

それでも両親は「好きなようにやりなさい」と背中を押してくれました。もとより彼らの反対があっても突き進むつもりでおりましたし、両親もそんな私の性格を百も承知です。

そこでひとつ問題なのが名前です。「文福堂印房」「松崎秀夫」だと何となく締まらない。もう少し「もっとらしい名前」が必要だと考えた私はそのことを父に相談しました。父には関野香雲先生からいただいた「竹廬(ちくろ)」という雅号があります。しかしそれは、名付けてくださった関野先生には申しわけありませんが、一昔前に使用禁止になった人工甘味料のような響きで、印鑑職人の名前としてはインパクトに欠けます。

そこで親子二人してネーミング会議です。よく雅号の末尾には「山・海・林・雲・峰・風・泉」など、自然を表す漢字が付けられます。そこで私が「本名の秀に石を足した『秀石(しゅうせき)』というのが語感や響きが良いと思う」と提案すると、父はしばらく考えた後「おなじセキだったら、石に頁を足した『秀碩』にして欲しい」と、まるで子供のように目を輝かせてそう言いました。

この「碩」は、中国の清朝末期から近代にかけて活躍した有名な画家・書家・篆刻家、呉 昌碩(ご・しょうせき)に由来しており、父は尊敬する偉大な先達から(それも勝手に)名前の一文字を頂戴することに、大きな喜びを感じているように見受けられました。

「それにしても呉 昌碩の碩とは、これはまたずいぶん大きく出たな」と父と顔を見合わせて大笑いしたことを鮮明に憶えています。

こうしてスタートした【秀碩の工房】オンラインショップは、私たちの予想をはるかに上回るほど多くのご注文をいただき、父はその最晩年に大輪の花を咲かせることができました。

ところが平成24年(2012)になると父の体調に異変が起こり、同年11月下旬に入院いたします。翌月には長年の盟友・岩本 博幸氏との「印章作品二人展」が開催されましたが、残念ながら父の来場は叶いませんでした。

その年の12月25日に本人と家族は担当医から詳しい説明を受けました。父の病名は「尿管および膀胱がん」。私たち家族は悲嘆に暮れましたが、本人はすでに達観しているのか、冷静にその事実を受け容れたように見受けられました。

それより父にとって重要なのは、余命があとどのくらいか、ということのようでした。医師にそれを尋ねると「半年か、あるいは1年か」との答が返ってきて、それを聞いた父は少しだけ安堵の色を浮かべて頷きました。父から常々「仕事が一段落して落ち着いたら、もう少し文字を書いて遺しておきたい」いう願望を聞かされていた私は、その首肯の意味を察しました。

一方私たち家族は、たとえわずかでも何らかの可能性を求めて、翌年1月下旬にがん研有明病院に予約してセカンドオピニオンを聞きに行きました。ところがそこで明かされた事実は、私たちのほんの微かな希望を、ものの見事に打ち砕くものでした。

「せっかくセカンドオピニオンをお受けにいらしたのですから、誠実にお答えします」と話し始めた医師の言葉に、私たちは思わず絶句するばかり。

「末期も末期、最末期の尿管がん・膀胱がんです。がんは直径10センチ以上もあり、私たち専門医でもめったに見ることがないほどの大きさです、余命はせいぜい1ヵ月半というところでしょうか? ここまでがんが大きくなるには3年から5年ほどを要したでしょう。ではなぜもっと早く発見できなかったのかとお思いかもしれませんが、もし早期に発見できていたとしても、残念ながら結果は今と同じだとお考えいただいて結構です」

そういえば5年ほど前から父は股関節の痛みを訴えており、マッサージなどに通っていましたが、もしかするとそれは発症したがんによる痛みだったのかもしれません。

しかし、セカンドオピニオン担当師の言うとおり、たとえがんが早期発見できていたとしても、父はその時点で即刻仕事を引退を余儀なくされ、その後長きにわたる闘病生活を強いられたことでしょう。

それを思うと、病気を発見できなかったことがかえって父が日ごろから望んでいた「生涯現役」を可能にしたわけで、これはこれでよしとしなければならないのかもしれません。

ちなみに、私の知る限り父の家系にがんで亡くなった者はいません。セカンドオピニオン担当医に「後学のためにお教えいただきたいのですが、父の病気の原因は何だと考えられますか?」と尋ねると、即座に

「喫煙です」

という言葉が返ってきました。

小学校卒業と同時に社会に出た父は、今ではとても考えられないことながら、なんと13歳で喫煙を覚えました。上京後間もないころ、ポケットに数十円しかなく、ラーメンかタバコか迷った末にタバコを買ったというエピソードを聞かされたことがあります。

そんな愛煙家の父も心臓のバイパス手術を受けたのを機に、60代後半に至ってようやく禁煙に成功しました。本人はそれですっかりクリーンになったと思い込んでいたようですが、前述のセカンドオピニオン担当医によると、それまでの長年に及ぶ喫煙で体内に蓄積された発がん性物質が、やがて尿管や膀胱に集結し、がんを誘発させるケースは決して少なくないようです。

2月に緩和ケア病棟の個室に移った父は、病室に文字を書くための道具を持ち込ませるなど、最後まで仕事への意欲を見せていましたが、3月に入ると急激に気力体力ともに衰え、日増しに眠っている時間が多くなりました。

亡くなる3日ほど前、見舞いに訪れると父は珍しく目を覚ましていました。そこで私はどうしても父に謝っておきたかったことを、思い切って口にしました。

「これまで仕事でいろいろ厳しいことを言って、ごめんね」

【秀碩の工房】オンラインショップは本当に多くのお客さまからご注文をいただきました。中にはお客さまのご要望納期にどうしても間に合わず、私が新幹線に乗って新神戸駅までお届けしたこともあります。それ以外にも、伝票の貼付ミスにより商品を取り違えて発送したりと、お客さまにご迷惑をおかけしたことが何度かありました。そのたびに私は思わず父を厳しく叱責しました。多忙のあまりついつい気が立っていたとはいえ、父にはずいぶん激烈な言葉を浴びせてしまったと、心ひそかに悔やんでいたのです。

すると父は微かに笑い、こう答えました。

「なあに、そんなことはもう、どうでもいいんだよ」

その一言に大いに救われたと同時に、そこには父の懐の深さ・寛大さとともに、生涯現役を貫くことができた充足感・達成感が集約されていると、わが親ながら深い感銘を禁じ得ませんでした。

それが父の最期の言葉となりました。3日後の平成25年(2013)3月8日早朝、誰にも看取られることなく、父は一人で旅立って行きました。その2ヶ月後、父と縁(ゆかり)のある方々をお招きして「お別れの会」を開きました。挨拶に立った私は、生前父から聞かされいた秘話を披露しました。

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かつて父が心臓バイパス手術を受けたときのことです。オペから数日後のカテーテル治療中に、突如として父の心臓が数10秒間止まってしまいました。後で聞いた話によると、そのとき父は色とりどりの美しい花々が咲き乱れる川岸に立っていたそうです。そして向こう岸では大好きだった彼の母親が優しく手招きをしています。「秀夫、早くこちらへおいで」と呼んでいます。父はうれしさのあまり、思わず2、3歩川の中に歩を進めました。しかしふと思い直して「もう少しやり残したことがあるから」と川から上がり、母親に背を向けて歩き出したところで意識が戻り、目が覚めたというのです。

そして今、印鑑職人としての生涯をまっとうした父は、母親の待つ対岸へと、今度こそ嬉々としてその川を渡っていったことでしょう。そして数十年ぶりに母親と手をつなぎ、仲良く一緒に花畑をいつまでもどこまでも歩いていく姿が目に浮かぶようです。松崎 秀夫でも、ましてや印鑑職人・秀碩でもなく、70年前の八朔 秀夫少年に戻って・・・。

そんな光景を想像するとき、悲しみの中にも、なんとも気が休まる思いがして、つい微笑が浮かんでしまうのを禁じ得ません。

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「お別れの会」は実に和やかな雰囲気のうちにおひらきとなりました。すべてのお客さまをお見送りした後、がらんとした広い会場で、私はひとり、祭壇に飾られた父の大きな遺影と向き合いました。

「これで、よかったかな?」

そんな私の問いかけに、父は優しく微笑んで応えてくれたような気がします、ありし日のように。


父・松崎 秀夫

昭和54年(1979)8月23日 地元商店街の盆踊り、やぐらの上で太鼓を叩く合間に。