住み込み弟子が語る文福堂印房の思い出

昭和37年、物干しで遊ぶ秀夫、文一、倉方信男

昭和37年(1962)夏、物干しでくつろぐ倉方 信男さんと松崎 文一、そして松崎 秀夫。

倉方 信男さんは昭和35年(1960)から6年以上に渡って文福堂印房に住み込みで働いていました。 現在では往時を知る唯一の存在となった倉方さんに修業時代の思い出を語っていただきます。
なお倉方さんは創業者・松崎 猛を「おじいさん」、先代・松崎 秀夫を「先生」と呼びます。
(聞き手・松崎 文一/平成31年2月7日 JR上野駅構内某カフェにて)

-文福堂に住み込み修業することになったきっかけをお聞かせ下さい。

とにかく勉強が嫌いで、中学卒業後は社会に出たいというより、単にこれ以上勉強したくなかった(笑)。 当時、叔父2人がそれぞれ大田区池上と鵜の木でハンコ屋を営んでいて、特に池上の叔父の店には中学時代から出入りしていました。
彫りゴムの手ほどきを受け、さらい(文字以外の余白部分を削り取る作業)のアルバイトして小遣いをもらったりしていました。その池上の叔父がハンコ組合で顔見知りだった「おじいさん」(当店創業者・松崎 猛)に私の弟子入りをお願いしたと聞かされています。

-中卒後にその池上の叔父さんの店で働くという選択肢もあったのでは?

うちの親父は厳しい人で「親戚だと甘えるからモノにならない」ということで「他人様の飯を食って修業して来い、一人前になるまでは帰ってくるな」ときつく言われて家を出ました。

-でもご自宅の大田区千鳥町から文福堂印房のある大井町までは、住み込まなくても十分通える距離ですよね。

今思えばね。でも当時は修業は住み込みが当たり前の時代だったから。

-そして昭和35年(1960)4月1日から修業の日々が始まりました。

初日におじいさんから渡されたのは篆刻台(ハンコを彫刻するときに固定する器具)と印刀(ハンコを彫る彫刻刀)。自分はてっきりハンコではなく「彫りゴム」の修業をするもだとばかり思っていたので驚きました。

-仕事は私の父ではなく祖父(猛)に教わったのですか?

当時、「先生」(松崎 秀夫)と奥さんの七枝さん(猛の末娘)は日中、御徒町の店(出張所)で仕事をしていましたから、ハンコ彫刻の手ほどきはおじいさんから受けました。

-ではその頃、私は?

昼間、ふみかずくん(倉方さんはいまだに私をこう呼ぶ)の面倒は、おばあさん(松崎 イノ)が見ていましたよ、憶えてないの?

-だって0~3歳だもの、まったく憶えてない(笑)。ちなみに住み込みのお給料は?

給料ではなくて「小遣い」。私と同じように中卒で社会に出て工場で働いていた友人は毎月7~8千円の給料をもらっていたのに対して、私は毎月千円のお小遣い。それが毎年千円ずつだけど値上がりしていきました。

-祖父の教え方はどうでした?

厳しかったですね。初めて実印を字入れ(印面に朱を塗り、左右反転した文字を墨で書く作業)からすべて任されたときのことを憶えています。何度字入れをやり直しておじいさんに見せても、その都度「ダメだ、やり直し」と突き返される。
当時は毎月第1、第3日曜日だけ休みをもらえて、翌日の日曜日は前々から友だちと約束をしていましたが、このままでは遊びに行けない。そこで先生(秀夫)に教わって、翌朝6時に起きて字入れをしました。ちょうど出来上がったころにおじいさんが起きてきたので恐る恐る見せると「いいよ、これで」とようやくOKをもらえました。

-それは確かに厳しい。

でもおじいさんからは「仕事で」怒鳴られたことは一度もありませんでした。むしろ「荒彫りは秀夫より上手い」と褒められたくらいです(笑)。先生は独身時代、大手のハンコ屋さんで仕事をしていました。その店は受注量が文福堂印房とは比較にならないほど多かったので、のんびり彫っていては納期に間に合わない。先生としてもついつい荒彫りが雑にならざるを得ない。それを結婚後におじいさんから注意されたと、後に先生が語ってくれました。

-でも孫の私にとって祖父は怖い存在でしかありませんでした。

その通り。ささいなことですぐ激高しては大声で怒鳴る。なにしろお客さんにも怒鳴りますからね。注文に来たお客に前金を要求する。ハンコは受注製作品だから前払いは当然のことです。ところがそのお客が「出来てもいないのに先に金を取るのか」と文句を言った。当時はそういうことを言うお客も少なくありませんでした。
それを聞いたおじいさんは瞬時にして烈火の如く怒り爆発。「冗談じゃあない、帰れ!二度と来るな!」そばで聞いている私までおっかなくって縮み上がりますよ。

-それこそ私のイメージどおりの祖父です(苦笑)。でもそれでは売上げは伸びないわ。

とにかく家の中では皆いつもビクビクしていましたね。ある晩、皆でテレビを観ていて、七枝さんが何か言ったのが気に入らなかったのか、おじいさんが急に怒り出してテレビを消す。何せ家の中のことはおじいさんが全権を掌握していましたから、おじいさんがウンと言わない限り、テレビも観られない。おじいさんも意固地になっているからその後数日間はずっとテレビを観られなかった。でもおじいさんは相撲が大好きだったから、ついにがまんできなくなってテレビをつけました。

-このサイトの別項にも書きましたが、幼心にも常に祖父の顔色を窺っていた記憶があります。

だからハンコ組合の旅行などでおじいさんが留守の日は、もう天国(笑)。七枝さんが「今日は皆で好きなものを食べよう」と言って焼鳥を買ってきたりして、束の間のなごやかな雰囲気を楽しみました。

-まるで織田信長だ(笑)。

おじいさんのことをあまり悪く言いたくはないけれど、特に金銭については他の誰をも信用していませんでしたね。あるとき先生が御徒町(出張所)の売上げ日計表を持ち帰ってくるのを忘れ、おじいさんに怒られて取りに戻らされました。毎日の食費にしても、その都度七枝さんがおじいさんからもらって買い物に行っていました。

-私はむしろ少しは見習ったほうがいいくらい(苦笑)。

実は一つ嫌な思い出があります。あるとき店の金庫から5千円がなくなりました。私がいちばんに疑われ、ちょうど私の留守中に私物を調べられた形跡がありました。そして私が店に戻るとおじいさんに開口一番「取ったろう!」と怒鳴られました。

-それはいつごろのことですか?

入って2~3年してからのことだったと思います。

-ということは、祖父と信ちゃん(私は倉方さんをいまだにそう呼ぶ)との間には十分な信頼関係ができているはずでしょう? ちょっとひどい話だな。

こと金銭に関しては、おじいさんの心中に「信頼」の文字がなかったように思います。おじいさんはいつだったか私に「秀夫に店を任せると何をされるかわからない」と話していたくらいですから。問題の5千円も、結局後になって出てきたのだけれど、おじいさんは私に謝ってはくれませんでした。七枝さんに「ほんとうにごめんなさいね」と言われて幾分かは救われましたが。

-祖父がそこまで、特に金銭に対して他人へ猜疑心が強かったとは知りませんでした。実は今回、当店の歩みをこのWebサイトに記すことになって初めてわかったのですが、なんとも悲劇的な原因で長男の弥太郎に先立たれた衝撃で、祖父の精神がその後徐々に蝕まれていっただろうことは想像に難くありません。元来が短気・頑固・意固地だったにせよ、その傾向にいっそう拍車がかかり、娘婿であろうと弟子であろうと、一切他人を信じられなくなったという側面もあったかと思います。

私が入ったとき弥太郎さんはすでにこの世の人ではなかったし、誰も弥太郎さんについては触れようとしなかったので、そういう事情があったとは今日の今日まで知りませんでした。確かにおじいさんの「他人は誰も信じられない」という心の内には、弥太郎さんの不慮の死が暗い影を落としていると言えるかもしれません。でもね、おじいさんは決して悪い人ではありませんでしたよ、これだけは言えます。

-そう言っていただけるとありがたく思います。

でもおじいさんがそんな風だから、私の前に文福堂印房で修業した人も長続きしなかったようですね。

-・・・えっ!? うちで修業したのは信ちゃんが最初ではなかったのですか?

違いますよ、おばあさんの親戚筋のH・Kさんや、七枝さんのお姉さん(冨美子)の旦那さんだったM・Tさんも、住み込みだったか通いだったかは定かではありませんが、文福堂印房で修業を始めたものの、結局は短期間で辞めていったそうです。

-H・KさんもM・Tさんも親戚だから存じ上げておりますが、当店で修業なさったとは知りませんでした。

弟子でさえ長続きしなかったのだから、婿養子の先生はたいへんだったと思いますよ。七枝さんに2人目のこども(6歳違いの私の妹)ができてからは、私が七枝さんに代わって御徒町の店で先生と一緒に仕事をするようになりましたが、ある日先生がポツリとつぶやいたのを憶えています。「信ちゃんには帰るところがあるからまだいいよ、オレには帰る家がどこにもない」

-つらいなあ・・・(嘆息)。

でもね、かといって先生が日々縮こまっていたかというと、そんなことは全然なくて、おじいさんとも決して険悪な間柄ではなかった。今思うと先生が毎日昼間は御徒町の店に行っていたのがよかったんじゃないかな。その分だけおじいさんとも一定の距離を置くことができたし。

-それは大きいでしょうね。

それに先生には実は隠れた収入源があってね。先生が結婚前に勤めていた大手のハンコ屋さんに頼まれて、御徒町の店でコッソリ下請けの仕事をしていたんだよ。

-へぇ、それは初耳です。

おじいさんは仲間仕事(=同業他店の下請け)が大嫌いで一切受けなかったけれど、実際問題としてお金が自由にならない先生としては、どうしてもお小遣いが必要だった。でもそれは遊ぶためではなくて、Iさんをはじめとする同業の友だちとのお付き合いや、技術向上に必要な本を買うためとかにね。御徒町の店では私もその仲間仕事を手伝って先生からお小遣いをもらったりしていました。

-そのくらいの楽しみがなくては、ねえ。

七枝さんも当然それを承知していたはずですが、もちろんおじいさんいは黙っていましたよ。もし知られたらたいへんですからね。

-信ちゃんが文福堂を突然辞めた日のことは、今でもうっすらと覚えています。ある晩、家の中がなんだか騒がしいと思っていたら信ちゃんが階段を上がってきて両親に何か話し「ふみかずくん、元気でね」と言い残して階段を下りて出て行った。今まで家族同然だと思っていた信ちゃんがいきなりいなくなったときの衝撃は、子供心にも大きいものでした。いったい何があったのですか?

15歳で修業に入ったころはまだ子供で世の中のことは何もわからず、純真というか純朴でした。おじいさんに何を言われても「わかりました」と返事をして、どんなに怒鳴られようがひたすら「すみませんでした」と詫びるのが弟子として当然のことだと思っていました。これが年数を経ていくと少しずつ世の中が見えるようになってきて、その結果、知らず知らずのうちに生意気になっていくのですね。
昭和39年の東京オリンピックを記念してハンコの組合が技術競技会を開催しました。先生に勧められるままに作品を出品してみると、なんと銅賞をいただいたのです。多少は先生に手直しをしてもらいましたが、それにしても修業を始めてほんの4年、18か19の若造が賞をいただいたものだから、皆が褒めるわけですよ。そんなことがあて少しずつ増長していったんだろうな、今思うと。

-で、やがて決定的な事件が起こる。

すでに当初の約束だった6年間の修業を終え、お礼奉公の時期に入っていました。ですから遅かれ早かれ辞める時期が近づいていたのは事実です。そんなある晩、店に私の友人から電話がかかってきました。ついつい15分か20分ほど話し込んでしまい、ようやく電話を切るとおじいさんが例の調子で怒鳴るんです。
「いつまで長電話しているんだ、さっさと切れ!」これまでだったら「すみません」と謝っていただろうし、またそうすべきでもあったのでしょうが、つい「そんなこと言ったって向こうからかかってきたんだから仕方ないじゃないですか!」と口答えしてしまったのです。

-祖父はさぞかし驚いたでしょうね。

絶対権力者だったおじいさんは、恐らくこれまで誰からも反駁されたことなどなかったでしょう。ましてや弟子に面と向かって反発されるなど思いもよらないことだったに違いありません。おじいさんは見る見る顔を真っ赤にして「辞めちまえ!」と大声で怒鳴りました。私としてもこれまで溜まりに溜まったものがあったのかもしれません、その言葉を受けて思わず「辞めます!」と言い返しました。

-その直後に信ちゃんは階段を駆け上がってくるわけですね。

よく憶えてるねえ(笑)、2階にいた先生と七枝さんに手短に事情を話し「辞めます」と言ってそのまま飛び出しました。その足で千鳥町の家に帰り、親父には正直に話しました。

-それ以後、亡くなるまで祖父には会ってない?

なにせ荷物も持たずに飛び出したから、後日親父と池上の叔父がおじいさんに挨拶しに行き、布団など私の私物を軽トラに積んで帰ってきたのですが、その時私が同行したかどうか、ちょっと記憶にありません。ひょっとしたら一緒に行って頭を下げたのかもしれないけれど、今となっては思い出せない。

-それからどうしました?

後先考えず衝動的に飛び出してきたので、その先のことは何も考えていませんでした。そこで御徒町の店に行って先生に相談すると、先生が以前勤めていた大手のハンコ屋さんに喜んで推薦してくれました。それは今でもありがたいことだったと思っています。

-信ちゃんが突然辞めたことについて、父は何か言っていましたか?

先生はそのことには一切触れず「今の信ちゃんの腕ならどこへ行っても通用するよ」と、文字通り太鼓判を押してくれました。七枝さんも後で「信ちゃんだからこそこんなに長くいてくれたのよ」と労ってくださいました。今思えば先生-秀夫さんと七枝さんのおかげで6年間辛抱して彫刻技術を身につけることができ、今日までハンコ職人としてやってくることができたと、お2人には本当に感謝しています。もし2~3年で辞めていたら結局ものにならず、その後一人前の職人として食べていくことはできなかったでしょう。

-祖父についてはどうお思いですか?

最後は喧嘩別れになってしまいましたが、なんだかんだいっても職人としての基礎をみっちり叩き込んでくださったことにはとても感謝しています。辛いこともありましたが、それも今となっては良い思い出です。また、今日こうしてふみかずくんとじっくり話せて、弥太郎さんの死の真相を初めて知り、それが後々及ぼした影響の深刻さを考えると、おじいさんもまた気の毒だったんだなとしみじみ思います。

-祖父の死後、信ちゃんはよくうちに遊びに来ましたよね。

これで安心して敷居をまたげる、と(笑)。それは冗談だけど、月に一度は遊びに行って、秀夫さん、七枝さんと3人で徹夜で花札をして楽しく遊びました。実はお小遣い稼ぎのつもりだったんだけど、毎回のように七枝さんに一人勝ちされ、有り金を巻き上げられました(笑)。

-母がお金にシビアなのは祖父譲りですかね(笑)、今日はどうもありがとうございました。

こちらこそ。遠い昔のことを思い出して話すのは、頭の体操になりました。  


昭和38年、端午の節句

昭和38年(1963)倉方信男さんと松崎文一、五月人形の前で。